天正17年(1589)、伊達(だて)軍と芦名(あしな)軍が高倉付近で戦ったときのこと。
伊達軍は大いに苦戦をし、三春藩に応援を求めた。


西田町丹伊田にあった新田館(にいだやかた)からも、さっそく大勢の援軍を送った.
だがその留守に、館に残った兵が少数と見て、安達郡白岩、大場ノ内館の兵が、大挙して押し寄せてきた。
残った少数の兵は必死で防戦した。

その時、留守を守っていたのは智将と言われた泉田外記(げき)だった。
外記はただちに、町内の婦人の腰巻き(着物の下に巻くスカートのような下着)を借り集めた。
そしてこれを旗にして打ち振り、たくさんの兵がいるように見せかけて虚勢を張り、なおも防戦につとめた。


その時である。
後方から突然大軍の鬨(とき)の声が起こった。
兵士たちはその声に励まされて、さらに一層奮戦した。
それで敵軍も後方より援軍が到着したと思い込み、これはとうてい勝ち目はなしと、逃げ帰ったという。

戦いが終わって、鬨の声の出た場所を探したところ、山のすそに大きな石があり、石の表面に汗とも水ともわからないものが流れていたという。

それから、この石を「呼ばわり石」と呼んで、今に伝えられている。

〇西田町 丹伊田雄恵 (再話 渡辺雅子)

参考文献『郡山の伝説』
昭和61年3月10日発行
監修 東洋大学教授・文学博士 大島建彦
発行 郡山市教育委員会
編集 郡山市教育委員会社会教育課

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天正17年は戦国時代の真っただ中!

豊臣秀吉が天下を取っていたころのお話です。

この年、伊達政宗は陸奥(むつ)の国南部を平定しました。
陸奥の国とは、今の青森、岩手、宮城、福島のあたりです。

この伊達政宗の戦いが西田町でも繰り広げられていました。
丹伊田は三春藩と一緒になって伊達軍を応援していたんですね。

なんだか歴史がぐっと身近になるような昔話です。