説明

高柴三軒で作っていた小さな子育て木馬を、子供が遊べるように少し大きく作って売り出したものが高柴木馬である。


三寸四寸五寸の角材に馬の型を当て、墨でなぞって型を写し取り、馬の形を切り出した。
その頃は、今の三春駒と違って、馬の胸やお尻などは丸みを帯びた曲線だったし、その家その家でみんな描く模様も違っていた。

橋本広司民芸の当時の主人が、一つの角材から、背中合わせに二つの馬の型をいっぺんに取るように工夫した時、今の三春駒の直線的なデザインが生まれた。

また、有名な「三春」の名前を使った方が全国に知れ渡るだろうということから、いつしか高柴木馬は「三春駒」という名称になった。
大正15年に発行された民芸品の番付表には、すでに東の大関として「三春駒」の名前が見られる。

昭和の戦争中には、細々と作り続けていた橋本広定さん(当時の橋本広司民芸主人)以外、一時誰も作らなくなってしまったが、戦後になって、広定さんの描き方に揃えて、他の家もまた作るようになったのが今の三春駒の形である。

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